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おばあちゃんが死んだ

お久しぶりです

 

長門です。

年末のCDJについての記事ぶりのブログ更新です。

 

気づいたら2019年も折り返していた。この半年間、色々なことがあって、それについてはまた改めて書きたいんですけど、今日はタイトルの通り、おばあちゃんの命日になったので、そのことについて書きます。

 

7/19(金) 21:37

家族から連絡がきた。おばあちゃんが今夜死ぬかもしれない、と。

去年の年末に一度おばあちゃんは入院し、万が一を覚悟した方がいいと言われていた。病気ではなくいわゆる老衰だった。呼吸機能が低下していた。結局、その後は回復して退院したけれど、近い将来のおばあちゃんとの死別を覚悟していた。

連絡を貰った時、いよいよその近い将来が来たなと感じた。僕はまだ会社にいたけれど、その時間から地元の長野に帰る方法がなかった。仕方なく一旦家に帰り、朝一の状態を連絡してくれと家族に頼んだ。翌朝にはすっかり回復して、やっぱり大丈夫だから夏休みに帰っておいでと言われることを心の底から願って眠りについた。

 

7/20(土) 5:42

母親からLINEのメッセージが届いた。あと数時間だと看護師に言われた、と。僕は急いで荷物をまとめ新幹線で長野に向かった。道中の新幹線では色々なことを考えた。おばあちゃんとの思い出を振り返りながら、「半年前から覚悟をしてきただろう、取り乱すな」と自分に言い聞かせた。

 

7/20(土) 9:00

病院に到着する。おばあちゃんはまだ息をしていたが意識はなかった。病室には母と父がいた。おばあちゃんの顔を見ると、息を吸い込む度に口をパクパクと開いていた。肺が弱って十分に酸素を吸い込まないため、顎の筋肉を目一杯使って呼吸をしているらしい。老衰患者の終末期の特徴的な症状とのことだった。一見すると、苦しそうに呼吸をしているけれど、本人は非常に安らかな状態らしい。僕はタバコを吸いに行くと言って病院の向かいにあるコンビニに向かった。病室を出た瞬間、理由のわからない涙が溢れてきた。半年前から覚悟をしていたはずなのに。まだ死んだわけでもないのに。

病室に戻ると両親から、万が一の場合に備えて葬儀の準備をしにおばあちゃんの家に行くから病室にいてくれないかと言われた。病室におばあちゃんと2人きりになる。手を取ったり、頭を撫でたり、声をかけたりした。おばあちゃんに最後に触れたのはいつだろうと考えたけど思い出せなかった。握り返してくれる内にもっと手を握っておくべきだった。抱き返してくれる内に全力で抱きしめておくべきだった。酸素マスクをしない内にキスをしておきたかった。そんなことを考えていたら涙はやっぱり溢れてきた。おばあちゃんのことはずっと大好きだったけど、こんな恋人みたいな愛情表現をしておけば良かったと思うほど愛していたんだと気付かされた。後悔よりも、自分のおばあちゃんへの想いが自分の思っていた以上に強いものだったと気付けて嬉しくて、泣きながら笑っておばあちゃんに呼びかけた。

 

7/20(土) 18:00

父親に付き添いを交代してもらい、一旦実家に帰る。お風呂や着替え、夕食などを済ませておく。21時頃からは弟が付き添い、0時からまた僕が付きそう。

 

7/21(日) 23:30

病院に着く。病室のソファーを並べて弟は横になっていた。弟が帰り、僕もソファに横になる。おばあちゃんの呼吸は続いていたけど、昼間より弱くなっているのがわかった。同じ部屋で夜を越すのは何年ぶりだったのかな。小学生の時、親と喧嘩をして泣きながらおばあちゃんの家に飛び込んで隣で寝た時以来かな。あれ小学2年生くらいかな。

 

7/21(日) 3:30

ソファから起きておばあちゃんの横の椅子に座る。手を握っておばあちゃんを見ていた。

 

7/21(日) 4:00

途切れず続いていたおばあちゃんの呼吸のペースが段々と途切れ途切れになる。異変に気付いて立ち上がる。とうとう呼吸が止まった時、看護師が駆けつける。僕は離れてそれを見守る。ご家族を呼んでくださいと告げられた。すぐに母に連絡をして、家族を呼んでもらった。息が止まってからもおばあちゃんの手を握り続けた。なにを考えていたのかは覚えていない。ただ、苦痛に顔を歪めることもなく、暴れることもなく、静かで安らかな最期だと思った。

しばらくしてまず父親が駆けつけた。タバコを吸っておいでと言われて病院の外に出た。

 

7/21(日) 5:12

タバコから戻ると祖父、叔父、両親がいた。そして5時12分、医者におばあちゃんの死亡確認をしてもらった。しばらくして弟が病院に到着する。弟は何も言葉にならないというような顔をしておばあちゃんの横にいた。「手を握ってあげな」と僕は言った。「温度のあるおばあちゃんはこのタイミングが最後だから」と。弟は頷いておばあちゃんの手を握っていた。その後、祖父や叔父とおばあちゃんの思い出話を少ししたが、葬儀の打ち合わせや親戚への連絡など悲しみに暮れる暇もないほどに忙しくなった。

 

7/21(土) 6:30

祖父の家に行き通夜などで人をもてなせるよう準備を始める。こんなにも淡々とした作業が続くのかと少し怖くなった。

 

7/21(土) 7:00

霊柩車でおばあちゃんが運ばれてきた。家の中におばあちゃんを入れるのを手伝った時、元から細いおばあちゃんだったがこんなにも軽いのかと思った。母に聞くと体重は30kgあるかどうかくらいまで痩せていたそうだ。引き続き、部屋の掃除やらを続けていると部屋の隅に家庭用の酸素ボンベがあることに気づいた。その酸素ボンベを手に取って、これを装着して呼吸を続けてきたおばあちゃんの姿を想像した。僕が東京で何気なく過ごしている間も、おばあちゃんは懸命に呼吸を続けていたんだなと思った。

 

7/21(土) 10:00

両親はまだ準備や葬儀の打ち合わせなどをしていたが、夜通し付き添っていたこともあり先に家に帰ることになった。家についてタバコを吸って、すぐに僕は眠りについた。参議院選挙とかワイドナショーの生放送とか賑やかな日だったけど、僕には関係なかった。19:00頃に起きてすぐにこの記事を書いている。

 

僕は自他共に認めるおばあちゃん子だった。そして、おばあちゃんも全力の愛情を持って僕に接してくれたと思う。

僕の実家はおばあちゃんの家の隣にあった。だから僕の日常におばあちゃんはずっといてくれた。

小学生の頃、僕が家に帰ると両親はまだ働いていた。そんな時は必ずおばあちゃんの家に行く。おばあちゃんが作ってくれたおやつを食べるのが日課だった。おばあちゃんの畑で取れたじゃがいものフライドポテト。おばあちゃんの家で飼っていた鶏の卵で作ったニラ玉。その鶏に一緒に餌をあげに行ったりもした。僕が両親と喧嘩をして部屋に引きこもっていると、おばあちゃんが来て僕のことを優しくなぐさめてくれた。そしてお母さんとお父さんの言うこともちゃんと聞かないとだめだよと最後に少しだけ説教をしてくれた。

中学生の時、2年生の部活の新人戦前、おばあちゃんが激励の意味を込めて僕の好きな料理を作ってくれると言った。僕は海老天丼と茶碗蒸しと言った。渋い。その後、部活の大会や受験、何か大事な節目の前に必ず海老天丼と茶碗蒸しを食べることになる。ちなみに僕は中学生の時、部活でレギュラーじゃなかった。そんな下手じゃなかったと思うけど、そこそこ強いチームだったからって言い訳をしたい。でもいわゆるシックスマン的なポジションなのに毎回好物で激励されるのはなんとなく申し訳なさもあった。

高校生になると、朝起きるのが苦手な僕は毎日のように寝坊をしていた。それでも毎日おばあちゃんが車で学校まで送ってくれていた。3年間で200日くらい遅刻したけれど、欠席は2回だけ。間違いなくおばあちゃんがいなきゃ出席足りてなかった。毎日、学校に着いたタイミングでジュース代って500円くれたんだ。ありがとね。

上京してからは、年に4〜5回くらいの帰省のタイミングで1〜2時間くらい会いに行くだけだった。今は実家が引っ越しておばあちゃんの家は歩いて行けなくなって。でも帰省したら必ず会いに行った。僕の健康のこととか仕事のこととか結婚のこととかそう言う話をたくさん尋ねられた。結婚相手はそのうち挨拶に連れてくるよって約束、守れなくてごめんね。毎回、帰り際に寂しそうな顔で次はいつ来るんだって聞かれた。でも、次はGWだよとか、夏休みだよとか、そうやって答える度に嬉しそうに笑って「気をつけるんだよ」って見送ってくれた。今回は初めてその言葉のない帰京になる。

 

85歳、立派だと思う。乳癌にもなった。乳房摘出をした時、男になっちゃったなんて笑っていた。足腰も悪くなって、転んでしまうことも増えて急にアザだらけになった時も笑っていたけど僕は泣いて心配したよ。僕には見せない苦痛もきっとたくさんあったんだと思う。でも、そんなおばあちゃんが病気でもなく、事故でもなく老衰で逝った。多分、最期の瞬間に僕が手を握っていたことも、呼びかけた声も届いていなかったかもしれない。でも事実として、おばあちゃんのことを心の底から愛していた孫に看取られて逝った。親戚のみんなが良かったねって言ってくれる最期だった。うん、誰が聞いたって幸せで立派な最期だよ。

 

帰省した時、おばあちゃんに言われた言葉がある。

「私の人生は決して順風満帆と言えるものではなかったけど、自分の娘が家庭を持って、あなたが生まれて、そのあなたが今生きていることが、私の生きた証であり誇りなんだよ」

 

おばあちゃんは死んだけれど、僕がこれから過ごす時間は全部おばあちゃんと過ごした時間の延長線上にある。だから、これからの生活におばあちゃんがいなくても、おばあちゃんは消えないと思ってる。

 

僕はおばあちゃんの生きた証として明日からも生きていこう。

 

おしまい